Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Hn①

まえがき・あとがき略
第一部 
第一章 戦前、戦中から戦後へ
第二章 産炭地の記憶
第三章 母の思い出

第一章 戦前、戦中から戦後へ
一本の道
今でも私の記憶の中にはっきりと残っている一本の白い「道」。それは一面焼け野原の中を、南から北へ真っ直ぐに延びていた。そこは前夜までの人の営みも一切感じられない恐ろしいほどの無人の道だった。ただ焼けただれたトタンが何枚も風に飛ばされてばたばたと舞いあがっていた。敗戦の年三月、私は、東京女子医専に通う学生だった。父母弟妹たちの疎開した後の東京中野の留守宅を護りながら一人勉学に励んでいた。
 三月九日、学年末試験が明日という日。荒川区尾久の学友の家に一泊して徹夜覚悟の勉強に励んでいた。突如として米軍来襲の警報が鳴り響いた。東京大空襲の始まりだった。夜空には真っ赤な閃光がはしる。けたたましく、そして不気味なあのサイレン、一度聞いたら忘れられない音だ。アメリカは日本の主要都市のほとんどに焼夷弾を投下し、日本を壊滅に陥れた。
学友の家は大きな病院を経営していた。幸い陸軍の将校だった学友の兄上が在宅だった。
「池の水を防空頭巾にかぶれるだけかぶれ」 
大きな正門はすでに真っ赤な炎で這い出る隙もない。「裏門から出る!」 兄上の指示で裏門を潜りぬけ曲りくねった道を広場に出た。兄上の的確な指示がなかったら、あの燃え盛る炎の中、無事に逃げおおせたかどうか分からない。
「風の向きが変わったぞ」 
私たちと広場の反対側に避難していた大勢の人たちが「わあっ」と叫びながら押し寄せてきた。もう駄目だと思ったときまたも風の向きが変わった。火事場と言うのは風がくるくると向きを変えるものだと知った。
白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鳥たちが死んでいた。一面灰色の瓦礫の広場と化した昨日までの町々。ここに昨夜まで生きていた人々は、どこへ行ったのだろう。
二〇〇九年 執筆

母と歩んだ日々
 敗戦後、母とたびたび食料の買出しに行った。そのころ、配給制度などあってないようなもので、飢えた人々は皆リュックサックを背負って農家を訪ね、なけなしの衣料などと引き換えにさつま芋、野菜その他の食料を手に入れた。米は統制品で、帰りの駅には経済警察官らしい人が見張っていた。捕まるのが怖くてホームの上を走って逃げたこともある。
 私の嫁入り用にと母が少しずつ準備してくれていた和服も、この時、農家の手に渡ってしまった。あの着物は、どこの何方が身にまとったのだろうか。知るよしもない。生きるために必死だったから、着物どころではなかった。惜しいとは少しも思わなかった。
 都会では数多くの人が焼け出され、空腹に喘いでいた。戦中・戦後のあの時代、農家の人々も様々なご苦労があったと思う。でも都会に暮らす人達の困難は並大抵ではなかった。
 買出しの行き先は、いつもは戦時中疎開していた南那須の農村だった。ある日の朝、母は突然房総の海に行くと言い出した。
「どうして海になんか行くの。知り合いの人も一人もいない所なのに。食べ物が手に入るとは思えないけれど……」
 思わず問いかけたが、母は黙っていた。そこは今でこそ賑やかな海水浴場になっているが、当時はうら寂しい漁村だった。海岸に二人で立った時、あたりには人ひとりいなくて、眼前にはただ晩秋の暗い海が一面に広がっているだけだった。

 その頃、我が家は戦争の影響で苦しい日々を過ごしていた。父は以前から血圧が高かったが、戦争中の、しかも医者も不在で薬もないという山の中の疎開先で、良い手当ての方法などなかった。終戦の年の秋半ば帰京して間もなく脳出血で急死した。まだ五十六歳という若さだった。
 音楽学校のピアノ科に入学したばかりの妹は、もともと丈夫なほうではなかったが、たぶん戦争中の食料不足や、勤労動員の過労などで健康を損なったのだろう。父の葬式後まもなく結核と診断され、療養所に入所した。やむなく私は当時通っていた専門学校を中退した。そこは五年制の学校で、ようやく一年すこし通っただけだった。あと四年近くも父の無い私が、学業を続けられるという状況ではなかった。まして病気の妹や年少の弟がいたのだから。
 池袋の焼け跡に、いち早く開校していたタイピスト養成学校に、中野の自宅から毎日通った。人より三十分早く登校し懸命に練習した。修了後、学校から推薦され、英文タイピストとして米軍基地に生きる糧を得た。初出勤の朝、母が仏壇の父の位牌にじっと手を合わせていたことを思い出す。
 ここで四、五年働いた。考えてみれば、あの基地での頃が、年齢的に見て私の青春時代だったといえるかもしれない。けれど、なんと暗く陰鬱な日々だったことだろう。家のこと、妹のことなどが、いつも私の気持を暗く塞いでいて心が晴れることがなかった。
 けれど、そんな私にも楽しかった思い出がまったくなかったわけではない。基地での同僚の女性と打ち解けて交際することが出来た。二歳年上の人だったが、今でも顔もはっきりと覚えている。眼鏡をかけたとても聡明そうな人だった。昼休み、いっしょにイタリア民謡の『サンタ・ルチア』や、グノーの『アヴェ・マリア』などの美しい歌曲を歌ったりした。私はその頃このような歌がとても好きだった。
 一時期、日本人従業員のために、寄宿舎が建てられたことがあった。簡易プレハブのようなものだったが、私は入居の許可を得て、この女性と一室で共同生活をした。いっしょに炊事をしたり、本を読みあったり、夜遅くまで未来の夢を語り合ったり。短い期間だったが、懐かしく思い出す。私の青春時代唯一の心温もる日々だった。
 当時、日本人従業員全体の支配人にSさんという日本人男性がいた。まだ四十歳代のやる気のある人だった。この人の発案だと思うが、基地の一隅に屋根だけある小屋が建てられた。小屋の隅には巨大な釜が、二、三個備え付けられ、毎日昼前になると、その中でなにかがぐらぐらと煮込まれる。中にはチューインガム、ケーキ、チョコレート、牛肉、野菜など、ありとあらゆる食べ物のかけらが将にぶち込まれていた。この正体はなにか。米軍兵士達の大量の残飯である。
 今、聞いても信じられないだろう。でもお弁当も満足に持ってこられなかったあの頃、このあつあつの雑炊は日本人従業員達の飢えをすこしでも和らげる貴重な栄養源となった。こんな酷い食料不足の時代が、五、六十年前の日本に存在していたなどと聞いたら、それこそ今の若い人など「ウッソー」と笑うかもしれない。
 日本人のメンツも捨てて米軍当局と交渉したSさんは、努力の甲斐あって見事残飯払い下げに成功し、私たちを救ってくれた。こういう飢えた日本人たちが、その後不死鳥のように甦り、戦後日本の目覚しい復興を成し遂げたのだと思うと、同じ時代を生きた人間の一人として胸が熱くなる。
 戦前、父が東京都内に持っていた何軒かの家作は、空襲で跡形もなく焼け落ち、我が家には当時住んでいた東京中野の家だけが残っていた。この家が残っただけでも運が良かったと言えるかもしれないが。
母は一家の生活をどうするか、ずいぶん思い悩んだことと思う。だがその頃、米軍の英文タイピストは比較的給料が良く、私も少しは母の重荷を背負えたのではないだろうか。其の時はそんな自覚はまったくなかったけれど。給料日にはいつも袋ごと母に渡していた。その中からお小遣いをいくら貰っていたのか、今はまったく思い出せない。もっとも当時の私はお小遣いなどほとんど必要なかった。職場と家庭を毎日往復していただけだから。
お休みの日など母と買出しに行く時、小学校五年生だった弟はいつも留守番だった。朝は始発の電車に乗り、夜も遅かった。その間、弟はたった一人。きっと寂しかったに違いない。末っ子で可愛がられて育った弟だけに不憫でならなかった。この弟はその後、人生に挫折して四十歳代半ば自死して果てた。その魂は今どこをさ迷っているのだろう。哀れでならない。
子供の頃、近くの原っぱで、弟や幼友達といつも一緒に遊んでいた。黄昏時、家に帰る道すがら二人で眺めた夕焼け雲の、あの見事な茜色の美しさ。今でも目に焼きついている。弟の死が母の没後だったことが、せめてもの慰めである。
あの頃、街なかに毛虱が発生し、電車の中などで若い米兵が何か大きな声で叫びながら、乗客の日本人の頭に、殺虫剤のDDTの白い粉末を振り掛けていた。私も仕事の帰り振り掛けられた一人である。米兵にしても日本人のために良かれと思ってしたことと思うが、でも有無を言わさぬ強引な遣り方だった。みな髪の毛が真っ白になって、浦島太郎なみの俄か老人に変身したのだが、まったく笑うに笑えぬ光景。敗戦国という屈辱が日本人を卑屈にさせていたのか、抵抗する人はいなかった。
妹の髪にも虱が湧いていることに気付いた時、どんなにショックを受けたかわからない。妹が可哀想で涙が出そうになった。病気のうえに虱まで湧くなんて……。母と相談してそれからはいつも梳き櫛を持って行き、髪を梳いて取ってあげたが、今でも思い出す。療養所の大部屋の、あの窓際のベッドで、私が髪を梳いている間じっと目をつむっていた妹の姿。忘れることなどとても出来ない。
病む妹をなんとか元気付けようと、心で泣き顔で笑うという複雑な心境だった。帰り道、暗い夜道を、涙を拭き拭き歩いたことも、今まで誰にも言っていないが、私の記憶の中から消えない辛い思い出である。
だが、今になって考えれば、妹こそ心で泣き、顔で微笑んでいたのかも知れない。それとも健気で辛抱強い妹は、今あるがままの自分を素直に受け止め、静かな気持ちでベッドに臥していたのだろうか。きっとその両方だったのだろう。
その後、妹は療養に努め、ようやく退院することができた。一年ほど自宅で静養したのち、なんとか音楽学校に復学した。妹に代って復学の手続きに行った時のこと。校門を潜って事務室の方へ歩いていった時、傍らの教室から美しいピアノの演奏が聞こえてきた。静かな曲だった。誰か学生が弾いていたのだろうか。
私はその演奏を耳にして、あの苦しい戦争が終わったこと、真の意味での平和が到来した事を実感し、身体の中を大きな喜びというか、さらに深い感動が貫いたことを覚えている。と同時に、なにか張り詰めていた気持ちが急に緩んだのかもしれないが、訳もなく涙が出てきて困った。
結局、私自身は、戦後の新しい民主主義教育を受ける機会はなかった。でも学校に行かなくても、その気になれば勉強することはできると思う。民主主義とはどういう思想か、新しい政治はどのようにあれば良いのかなど、それまでまったくの軍国少女だった私だが、基地やその後社会で働く中で色々なことを見聞きしてだんだん理解していった。
また母が明治の女だったにも拘らず、買出しの行き帰りなど、当時としては進歩的な考えを時折話してくれて、とても良い勉強になった。いったい母はどこであのように新しい考えを身につけたのだろうか。新聞や本をふだん良く読んでいたからかも知れない。
初めて婦人参政権が認められ、女性が総選挙に臨んだ時、母は「これからの日本にはきっと女の時代が来る」と言った。今まさに女の時代が花開いていることを思うと、母の先を見る眼の確かさに驚く。
様々なことを体験し、悩んだり苦しんだりした、また時には喜んだりもした戦後の一時期だった。それらの思い出が今、しきりに私の胸にこみ上げてくる。
戦前には、毎年夏休みになると、家族皆で房総や鎌倉の海に避暑に行っていた。一ヵ月ほどの滞在で、漁師さんの一部屋を借りての気儘な暮らしだった。海水着を着たままいきなり眼の前の海に直行。ザブンと飛び込むその快適さと言ったらなかった。お土産をたくさん持って週末ごとに訪れた父。父と浅瀬で水と戯れて過ごしたひととき。それは子供たちにとってはこの上ない楽しい時間だった。ビーチパラソルの下でこんな夫と子供達を眺めながら、母も女として至福の時を味わっていたに違いない。
父が亡くなった時、母はまだ四十四、五歳だった。こんなに若く父と死別したとは。今から考えると早すぎる夫との別れだった。それだけに、まだ若かった母は、父と過ごしたあの幸せだった日々を、ほとんど珠玉のように大切な思い出として、胸に抱き続けていたのだろう。

母と二人で房総の海に行ったあの時、母はどうしてあんなにも長い間、海の彼方を見詰めていたのだろうか。今でもそのことを考えずにはいられない。
海の向こうに、母は何か見たのだろうか。私の話しかけにも一言も答えず、じっと立ち尽くしていた母の背中の表情に、言いようのない寂しさを感じないわけにはいかなかった。
母は父との幸せだった思い出を抱いて、私と房総の海に立ったに違いない。憑かれたように、ひたすら海に向かい、海を見詰めていた母。あの時、母の脳裏に去来していたのは、父への思いであるとともに、現実の生活の労苦から、一時的にでも逃れたいとの願望もあったかもしれない。若しかしたら海からの誘惑と闘っていたのだろうか。
母は家族のために強く生きなければならなかった。悩みも苦しみも、さらにはあの昔の父との楽しかった宝物のような思い出さえも、すべて海に捨て去るつもりで、あの海辺に立ったのだろう。その後の苦しい生活を強く生きぬくために。
男でも苦しい戦後の混乱の中、大黒柱の父を失い、病人と子供とを抱え、心身ともに疲れきっていたことだろう。でも母は海辺に佇んで、すべてを流し去って、その後、強く生きる糧を得たのだと思う。あの海で母は再生を果たしたのではないかと、私は今思っている。
今でも、あの時の波の音が聞こえてくる。
「もう帰ろうね」 私を振り返って静かに言った母の眼差しを、はっきりと覚えている。
 波間に揺れる海藻をすこしばかり拾って袋に入れ、二人で家路についた。車窓から見る町にはもうすっかり夜の帳が下りていて、あちこちに瞬く灯火が心なしかかすんで見えた。ひとり留守番をする弟が気がかりで、帰りを急いだ。
 あの日、海から帰った後、母はなにか人が変わったように私には思えた。思い込みかもしれないが、確かに母は強くなった。それとともに家の中の雰囲気まで明るくなった。
栃木県の麻問屋の娘だった母は、当時としては珍しく高等女学校を出ていた。歌が好きで家事の傍らよく口ずさんでいた。母には音楽の才能があったのだろうか。三味線も弾きこなした。私もいくつかの長唄の曲を教えてもらったことがある。
どちらかと言えば、お嬢さん育ちだった母だったが、その後、生活の苦労を私に漏らすことは無くなった。弱音は吐かなくなった。生活のためには何でも臆せず行動した。意識して自分を変身させたのだと思う。私はこんな母を尊敬する。

戦後を懸命に生きた母も、最期は認知症を患って、今から二十八年前、八月六日のあの広島原爆記念日に亡くなった。
 母が臨終を迎えた年の暑い夏の日の午後のことだった。夫と二人で母を見舞った時、母は私の顔をまじまじと見つめてひとこと言った。
「あんた、はるえさんなの」
 息が止まりそうだった。母は私のことが解るようになったのだろうか。それまで母はまわりの人が誰か解らなくなっていて、私の顔を見ても「あんた、だれ」と不審そうに呟くだけだったのに。
「そうよ。私、はるえよ」
 すると母は目に涙をいっぱいため、急に激しく泣き出した。まわりの人たちが、いっせいに母を見つめた。それでも母はおいおいと号泣し続けた。
「はるえさん。はるえさんなのね」
 私も母を抱きながら泣いた。母が可哀想でならなかった。それまで、どうしても私のことが解らなかった母。奇跡的に記憶が戻ったのだろうか。これから回復するのだろうか。わずかだが期待が膨らんだ。
だがその後、母はまた薄明の中をさまよい出した。一週間後、静かに息を引き取ったが、あれは母の最期の命の瞬きだったのだろうか。
 母と戦後、一生懸命に生きた日々が、今は懐かしく思い出される。母の一生はやはりあまり幸せではなかった。夫と早く死に別れ、戦後の生活の苦労を重ね、最期は認知症を患って亡くなった。哀れで不憫でならない。
 あの房総の海で、じっと遥か彼方を見つめ続けていた母。
「あんた、はるえさんなの」と泣きじゃくった母。
 母の思い出は、今も激しく私の心を揺さぶる。永別の日、子供たちの嗚咽の声が低く室内を流れる中、母の魂は静かに昇天した。病室の外は咽ぶような草いきれ。蝉時雨がしきりに耳に響く暑い真夏の午後のことだった。
二〇〇四年四月五日~同八月三十日 執筆

蝉時雨
「カナカナカナ、カナカナカナ」
我が家の二階、北向きの六畳間が、私の部屋である。窓外の林で、また蜩(ひぐらし)がいっせいに鳴き出した。
立秋を過ぎた今も、日差しはまだ強い。晩夏から初秋にかけて鳴くという蜩だが、この暑さの中、ひたすら鳴いているのは、たぶん秋の間近な到来を、その身体で感じているのかも知れない。
蝉たちは土の中に数年を過ごし、地上では十日にも満たぬ命という。今までは無意識に聞いていたが、実は蝉たちにとって其の鳴声は最期の命の迸りだったのだ。彼らはやがて息絶えて林の中になきがらを横たえる。そしてまた土に戻っていく。
蝉たちは精一杯生きて、鳴いて、そして生を終える。人間である私は果たして残りの人生を、自身納得できるように生き、死ねるであろうか。
林の中の降りしきる蝉時雨に耳を傾けているうちに、ふと五十数年前の疎開先での一風景を思い出した。
その時、私は那須山中を、診療所のある隣村への道を急いでいた。慣れぬ農作業で痛めた指の治療をするためである。
紺碧の空には一片の雲もなく、その中天に真夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。通る山道の両側は蒸れるような草いきれ。人一人通らぬ山中で耳に入るのはただ降るような蝉時雨だけだった。
まだ若い娘だった私が、たとえ小さな山とはいえ、一人で草を掻き分けて歩くのはちょっと怖かったが、でも途中、見上げた空の色はあまりにも美しかった。どこまでも青く深く、私は吸いこまれるような思いに、心が満たされた。
細い山道を汗まみれで歩く私の耳に響いてくる蝉たちの大合唱は、なにか不思議な感覚で、読経のようにも、賛美歌のようにも聞こえた。
その日、昭和二十年八月十五日。山一つ越えて、ようやく診療所に辿り着いたときは正午少し前だった。東京から疎開していた若い女医さんが、実家である大きな農家の一室で、村の人々を診療していた。
受診に来ていた人々がラジオの前に集まっていた。玉音放送があるという。それまで天皇のお声は畏れ多いということで、国民は耳にしたことはなかった。今回は直接国民に話しかけるとのこと。何ごとだろう。聞き取りにくいラジオに私もじっと聞き入った。
「日本、ポツダム宣言を受諾せり」。
「日本は負けたらしいぞ」
人々が叫んだ。ポツダム宣言受諾とは、日本の敗戦の事実を告げるものと知った。
 初めて聞いた天皇の声。長い辛い十五年戦争を耐えてきたのは何のためだったのか。多くの若者は一体だれのために死んだのか。私の心の中に大きな空洞がポッカリあいた。聞いている人、みな呆然とした。誰も信じられないという様子だった。
 小学校五年の時から、戦争は常に私の身近にあった。戦争はあるのが当たり前で、終わるということなど想像も出来なかった。だが戦争はこのとき本当に終わったのである。其の時、怒りも悲しみも、喜びもすべての感情は停止した。
私は一人診療所をあとにした。帰り道、行きと同じ山道を歩いていると、ふと目頭が潤んだ。急に激しい感情が胸の中に渦まいてきた。これほど国民に大きな犠牲を強いておきながら、はい、負けましたとはなんと酷いことだろう。涙が止まらなくなった。
 蝉時雨が、一人歩を進める私の耳の中で微かに響いていた。ふと見上げると、あの真夏の太陽が、紺碧の空に浮かんでいるのが目に入った。蒸れるような草いきれもみな往きと同じだった。戦争に負けても自然はいつもと変わらず、私のまわりに悠然と存在している。「国破れて山河あり」の言葉が胸に浮かび、今度は本当に声を出して泣いた。自宅まで山道をどうして帰ったのだろうか。今まるで記憶にない。あれから五十数年も経ったが、あの山道の風景は今でも私の胸中に浮かんでくる。
 ペンを持つ手をふと休めると、また窓外の蜩の声がしきりに耳に入る。五十数年前のあの山道での蝉時雨がオーバーラップして聞こえてくる。
「カナカナカナ、カナカナカナ」
休みなく鳴き続ける林の中の蝉たちの声が、私にはなにか戦争による多くの死者たちへの鎮魂歌のように思えてならない。悲しく、切ない鎮魂歌である。
二〇〇二年八月一五日 執筆

挽 歌
私には三人兄がいた。長兄の名は章夫。弟妹たちはみな「あきおにいちゃん」と呼んで慕っていた。優しい兄だった。中学生時代の写真が残っている。聡明で真面目な少年といった顔かたち。父母には長男としてすっかり信頼されていた。章夫兄も大勢の兄弟の総領としての自覚をはっきりと持っていたようで、弟妹たちにとっても何かと頼りになる存在だった。
どちらかと言うと運動よりも読書好きで、父母に買ってもらった本を熱心に読んでいた姿が、思い出される。だが、章夫兄は外遊びもけっこう好きだった。ひとつには、大勢いた弟妹たちを遊びに連れて行くという思いもあったのかもしれない。多分家事で多忙な母にみんなを遊ばせてと時には頼まれたりもしたのだろう。そんな母の気持ちもいやな顔もしないで聞き入れる優しい兄だった。
我が家は、私がまだ赤ちゃんの頃、東京赤坂から郊外の中野へ越して来たという。父の話によると、当時の中野は今の駅近辺の賑やかさとは較べものにならない田舎だったようだ。駅から徒歩十五分位の我が家まではるかに見渡せたという。なぜ賑やかな都会からこんな田舎に越してきたのだろう。当時中野に知り合いがいたという話も聞いていない。多分子供たちの健康を考えてのことだったのではないかと思っている。
豊かな自然の中で伸び伸びと育った私たち兄妹。小川でザリガニを捕り、原っぱでは日暮れまで我を忘れて遊んだ。ぶらんこも滑り台もないただの野っ原だったが、それで十分に楽しんだ。夏には庭の木に登って蝉取りに熱中したり、また友達と床屋さんごっこをして耳を鋏で切られ、泣きながら母の許へ駆け込んだのも今となっては懐かしい思い出の一つである。
ただただ楽しく遊びほうけていたあの頃。いまだ戦争の影響もなく平和なよき時代だった。男三人の次に、初めて生まれた女の子だった私は、いつも兄たちの後について、まるで男の子さながらの遊びに熱中していた。なかでも好きだったのはちゃんばらごっこ。おもちゃの刀を振り回しして、「えいっ、やあ」と兄たちと渡り合っていた。父がどこかへ行く時、「はるえ、お土産はなにがいい」と聞くと間髪をいれず「刀!」と言ったと言う。全く呆れたお転婆娘だったようだ。お神輿の後にどこまでも夢中になって付いていって迷子になり、普段は優しい章夫兄にひどく叱られたこともある。こんなのどかな暮しが続き、私は父母、兄たちの愛情に包まれて本当に幸せな子供時代を送っていた。だが、その後、幸せは無限に続くものではないのだと、私は子供心にも強く思い知ったのである。
その頃、我が家には思いがけず大きな不幸が襲いかかってきた。章夫兄の体に恐ろしい病魔が忍び寄っていたのだ。
私が小学校低学年、確か二、三年のころだったと思う。当時、中学生だった章夫兄が重い病に罹った。母に「章夫兄ちゃんの病気の名前はなんというの」と聞いたことがある。母は悲しそうな表情で「脳膜炎よ」と答えた。正式の名前は「脳脊髄膜炎」といったようだ。感染性と非感染性とあったようだがそのどちらだったのだろう。
母と私と妹の三人でその入院先の病院に、見舞いに行ったことがある。どのような道筋で行ったのか幼かった私は全然覚えていない。ただ電車に乗って行ったことだけは、はっきりと記憶がある。たしか牛込の「S病院」という名前だった。今も東京には牛込という町名があるのだろうか。
そこは和風の建物で、病室は今では考えられないが畳敷きの部屋だった。普段は付き添い婦さんが付いていたのだろうが、その時は一人で横たわっていた。母は部屋に入るやいなや、兄の枕もとに坐り、その手を握り締めて、何か一心に話しかけていた。きっと兄を元気付けていたのだろう。私は妹と病室の外の廊下で二人を見つめていた覚えがある。
母は心配と不憫さで胸中一杯だったに違いない。帰途しきりに涙を拭っていた。普段から電車が好きだった私は電車に乗れるというだけで喜んでしまい、その時どれほど母が悲しかったか、ほとんど理解できなかった。私は本当に何も解らない子供だった。
どれくらいの期間入院していたのだろうか。その後、章夫兄は自宅の座敷で療養するようになった。なぜ退院したのか私には解らない。父母は子供の私には何も話さなかったからだ。もしかしたら父母は兄の病が回復不能と医者から宣告されていたのだろうか。それで家に連れ帰ったのかもしれない。それとも、非感染性といわれて退院したのだろうか。
その頃、我が家の客間だった一階八畳敷きの和室に黒い鉄製のベッドをおいて、その上に章夫兄は身体を横たえていた。母はそれこそ寝食も忘れ懸命に看病していた。他にも大勢の子供のある母にとってはどれほど大変なことだったろう。でも、かけがえのない大事な総領息子を何とかして治してやりたいと必死だったに違いない。
学校から帰ると家の前にはしばしば人力車が止まっていた。それは医者の往診の車だった。戦前のその頃、医者は往診に人力車を使うことが多かった。病状はかなり進んでいたのかもしれない。かかりつけの医者はほとんど毎日のように兄を診に来ていた。医学の格段に進歩している今なら、脳脊髄膜炎などという恐ろしい病ももしかしたら克服できたかもしれない。でも当時父と母はそのような希望より絶望のほうの気分に苦しんだのではないだろうか。
ある日のこと、章夫兄がベッドの上から「お母さん、お母さん」と力なく母を呼んでいた。
「どうしたの、どこか苦しいの」
「明かりつけて、暗くてなにも見えないの」
病は兄の視力を奪ったのだった。母は兄を抱きかかえ、涙をこらえて言った。
「大丈夫よ。あきお、今すぐ電気つけるからね」
どんなに悲しかったことだろう。「脳脊髄膜炎」。医学書などを調べて後で知ったところによると、本当に恐ろしい病気。比較的若く発病し、その進行も若さゆえに早いという。事実、病状は日ごとに進行し、間もなく兄は父の必死の願いも、母の懸命の看病も空しく、天国へ旅立って行った……。
臨終の場は今でも覚えている。ベッドの傍らにかかりつけの医者が腰掛けていた。父と母がその両脇に坐り、母は「あきおちゃん、あきおちゃん」と悲痛な声で呼びかけていた。そして泣き崩れた。私はあの時泣いたのか、泣かなかったのか覚えていない。でも父母の悲しみは子供心に感じていたような気がする。
「明かりつけて」と母に訴えた章夫兄。おそらくその後、二度と明るい日差しを見ることもなかっただろう。父母にとって頼りがいのある大事な兄だったのに。なぜあんなに早く世を去らねばならなかったのだろうか。
 葬儀の日、木枯らしの吹く寒い日だったが、家には大勢の弔問客が訪れた。その時の私の担任の先生で、以前兄の担任でもあった稲葉先生が、眼鏡の奥で眼を潤ませていた。この光景は今でもはっきりと覚えている。
「よいお子さんでしたのに」
人々の言葉に父母はただ黙ってうなずいた。
その晩のこと。残った弟妹達が茶の間で火鉢を囲みながらお餅を焼いていた。多分夕食代りだったのだろう。ふと父と母の姿が見えないことに気がついた私は、急に不安になって二人を探した。玄関脇の小さな部屋で、父と母は明かりもつけず、言葉もなくただ互いに肩を抱きあって泣いていた。章夫兄の死がどれほど父母にとって悲しみの深いものであったか、子供の私にもその時、ようやく幾分なりとも理解できたのだった。

その翌年から父母は毎年子供たちを連れて避暑に行っていた。房総、鎌倉の材木座、逗子など夏休みの一ヵ月ちかく、漁師さんの一部屋を借りての自炊生活だった。朝早く浜の地引網で捕れたばかりの新鮮な魚を母はふんだんに食べさせてくれた。当時は海辺の暮らしが健康に良いというのが人々の通説だったからだろう。その後、戦争が激しくなり、避暑どころではなくなるまで、この行事は続いた。
この避暑にはさまざまな思い出がある。ある年、鎌倉の材木座に避暑していたとき、台風が襲来した。台風の去った翌日、母と兄弟たちと近くの稲村ガ崎に行ってみた。海岸沿いの道の上から眺めたのだが、沖合から激しい波が次々と押し寄せていた。ドドーンと足元に逆巻く白波は吸い込まれるような恐ろしさ。思わず目を覆ったほどだった。逗子の海岸では徳富蘆花の有名な小説『不如帰』の記念碑が立っていて母が感慨深げに眺めていたのも思い出す。母はきっとこの小説を読んでいたのだろう。
毎週土曜日には東京から父が来て、本や菓子など、また魚だけでは子供の発育に良くないというのだろう、肉も沢山買って来てくれた。土曜日の夕食は家族揃ってとても賑やかなひと時だった。子供たちにとっては本当に楽しかった日々。泳げない父は浅瀬で浮き袋を身につけ、ビチャビチャと子供たちと楽しそうに戯れていた。眼鏡の中でにこにこ笑っている父の顔をはっきりと覚えている。砂浜にビーチパラソルを広げて、その下で母が、父や子供たちの遊ぶ姿をしきりに眺めていた。あの大きなビーチパラソル。今でもデザインも柄も覚えている。周りにフリルのついたピンクと白の縦縞模様だった。
その頃、我が家は平凡なサラリーマン生活。暮らしが楽だったわけではないだろう。だが父母は残る子供たちを健康に育てたい一心で、ひたすら海へ行っていたのだと思う。二度とわが子を失う悲しみは味わいたくはなかったのだろう。
兄を失った父母にとってこの避暑には悲痛な思いが込められていたのだと、今ならよく分かる。残る子供たちを二度と失うことがないようにとの強い思いがあったのだろう。浅瀬で楽しそうに子供たちと戯れる父の表情の裏に、また浜辺でじっとビーチパラソルの下、子供たちを見つめる母の面持ちの中に、隠しきれない章夫兄への深い哀惜の思いが込められていたのだと今頃になって気づくとは、なんと思いやりの乏しくまた父母への愛情も足りなかった私だったことだろう。あのときの父母の表情は今でもはっきりと思い出せるのに。

その後、何年かして弟が生まれた。夜中、病院から喜色満面で帰ってきた父。「男の子だったよ」と大喜びだった。たぶん章夫兄の生まれ変わりと思ったのだろう。その弟もすでにいない。
二〇〇九年四月九日 執筆


父は、母と結婚後、男ばかり三人立て続けに生まれ、四人目にようやく女の子を授かったのだが、そのときの喜びようといったらなかったと、母は後々言っていた。その女の子が私だった。だから、私は父から貰った愛情の思い出は、本当に数え切れないほどあって、思い出すと胸が熱くなるほどだ。遠い昔のことなのだが、今でも父の優しい表情や声を昨日のことのように思い出す。
亡き母が生前話してくれたところによると、私が産声をあげたのは東京の赤坂だそうだ。その後まもなく一家は郊外の中野に引っ越したというから、私には赤坂の記憶はまったくない。その頃、我が家は赤坂の「一ツ木通り」という通りに面していて、父は昼間会社勤め、母はそこで小さな洋品店を営んでいたという。
中野の家の前の通りは、大人になってから行ってみると、驚くほど狭い道で、まるで路地といった感じだった。その道が表の電車通りまでまっすぐに続いていた。当時、車の行き来などほとんどなくて、その道は子供たちの格好の遊び場だった。子供たちにとって、そこは必要にして十分な広さだったのだ。
 女の子は、縄とびやおはじき、かくれんぼ、石蹴りなど、男の子はベーごま、めんこ、またはボール投げなども少し離れた所でしていたが、それこそ日の暮れるまで飽きもしないで、よく遊んだものだった。
 夕方、友達と道路で遊んでいると、電車通りの方から、父が濃いグレーのスプリングコートを着て中折れ帽をかぶり、こちらへ向かって歩いてくることが、よくあった。私はその姿を見つけると、いつも「お父さん!」と叫び、父へ向かって走り寄った。父は必ず私を抱き上げて、大きな声で「ただいま!」と、ごわごわの顔を寄せて頬擦りをしてくれた。父は溢れるほどの優しさで私を包み込んでくれた。
 そんな父だったが、世間的にはあまり世渡りの上手な人ではなく、立身出世などとはまったく無縁な人だったようだ。けれどその知識の豊富なこと、まわりから「生き字引」などと言われていた。子供たちが何を聞いても、即座に優しく丁寧に教えてくれた。私は子供心に「お父さんってなんて偉い人なんだろう」といつも思っていたものだ。
 また、父は実に人が良くて、時折、知り合いが借金の依頼に訪れて来たが、そんな時、決して断ることができず、いつも気前よく貸していた。そのくせ返金の取立ては絶対にできない人だった。母は「うちだって余計なお金なんかあるわけじゃないのに。お父さんは本当に人がいいんだから」と、よく、こぼしていた。今でもうっすらと記憶の中に浮かぶ一つの光景がある。それは父が客間で、小学生くらいの男の子を連れた中年の女の人と向かい合っている姿である。その人は泣いているようだった。夫が病気なのか、別れたのか、子供の私にもちろん理解なんかできっこないのだが、とても気の毒だという印象だった。父はそんな人を見過ごしにできない人だったのだ。人が良いだけではなく、優しい心の持ち主だった。だからいつも母に文句言われながらもお金を貸していたのだろう。
 父は平凡なサラリーマンで一生を終わったのだが、それでも東京の街中に何軒かの家作を持っていた。多分、母の才覚で手に入れたのではないかと、今では思っている。ただ父に従っていたのでは、子供たちの教育もできないとでも、母は思ったのかもしれない。ただしこれらの家は、空襲で中野の自宅以外は一軒残らず焼けてしまった。あの家が、もし戦後残っていたら、私もそれまで通っていた医学校も続けられて、その後の人生も少しは違っていたかもしれない。これは未練だが…。なるようにしかならないのが人生である。
 父は無類の子供思いだった。今でも懐かしく思い出す。
子供の頃、私の家では毎年、房総や鎌倉、逗子などの海へ避暑に行っていた。父のようなサラリーマンでも、そんなことができるのどかな世の中だったのだろう。夏休みの間、一ヵ月ほど、海辺の小さな部屋を借りての気儘な暮らしだった。父は土曜日の午後訪れ、月曜の朝、東京へ帰るのが常だったが、いつもお土産の玩具や本、肉類などをいっぱい持ってきて、母や子供たちを喜ばせてくれた。
 父は勤めがあり、また家にはコロという犬がいたので、そんな「土帰月去」の生活をしていたのだろう。こんな家族思いの父だったが、ただ一つ欠点があった。それはお酒がとても好きだったということだ。夜遅く、まだ帰宅しない父を心配して、母はいつも私を連れて表へ探しにいった。酔ってどこかの溝にでも落ちているのではないかと、暗い夜道を探し回ったものである。父が酔顔で帰宅すると、母は怒りのあまり、すでにお米を磨いで水を張ってあった釜の中へ、一升瓶の醤油をぶちまけたこともあった。帰るまではあんなに心配していたのに、父の顔を見入ると途端に怒りを爆発させる母の気持ちが、このごろはよくわかる。
戦争の足音は日一日と高まり、国内の政情も不安定さを増していたが、あの頃我が家はまだ幸せだった。お握りを持って一日海で遊び過ごした日々。父は泳げないので、いつも私や妹と浅瀬で浮き袋を付けてビチャビチャ遊んでいた。あのときの父の楽しそうな顔、今でも決して忘れることはできない。
 こんな平和な時も何時までも続かなかった。それ以後、日本は一目散に戦争への道を突き進んだのである。辛い日々だった。食料は不足し、空襲は相次ぎ、国民、特に都市の住民は本当に戦争の辛苦を嘗め尽くした。那須の山里へ疎開したときの、父母の苦労は並大抵のものではなかった。東京大空襲があったときは、私は下町の友達の家で翌日の試験勉強をしている最中だったが、まるで悪魔の叫びのように響き渡った空襲警報は、本当に身の毛のよだつような恐ろしさだった。幸い、その友達のお兄さんが陸軍の将校だったので、的確に避難誘導をしてくださり、紅蓮の炎の中、命だけは助かった。庭の片隅にあった小屋に、鶏の焼け爛れた姿が無残に転がっていた。一面の焼け野原に立ち尽くし、なにも考えられなかったのだが、それでも一人で、池袋の下宿先まで線路の上を歩いて帰った。那須の山の中で、東京方面の真っ赤な空を眺めながら、父母たちは私のことが心配でいても立ってもいられなかったそうだ。
 翌日、ようやく切符を手に入れ上京してきた父は、私の無事な姿をみて泣きながら抱きかかえてくれた。
 食料不足とその後も続く激しい空襲、日本はもはやアメリカに立ち向かう力もなくなった。八月十五日ポツダム宣言受諾でついに長く辛かった戦争は悪夢のように終わった。皆悲しみと虚脱感でいっぱいだった。
 戦後、ようやく平和になったと思ったのも束の間、父はその年の秋、脳溢血で倒れ、わずか三日の後亡くなってしまったのである。その頃、私は父とともに、中野の家の様子を見る為に上京していたのだが、父がいきなり倒れたとき、私は一人でどうすることもできなかった。お医者さんは疎開してしまい、薬屋さんもどこにもおらず、私はとにかく母に電報を打ったが、汽車の切符がその頃なかなか買えず、母が来たのは父が亡くなるわずか前だった。それでも長年連れ添った父の最期を、せめて短い時間でも看取ることができたのは、母にとっては幸せといえるだろう。
母が後で言っていた。「お父さんがね、春栄にはよく看てもらったよ。春栄を頼むよと言っていたわ」と。私は父がそんなことを最期に言ったということを聞いて、もう涙が止まらなかった。私こそお父さんには小さいときから、どれほど愛してもらったことか。でも私は父に何一つ親孝行もしなかった。これから平和になって、父や母と楽しく暮らしたいと思ったのも叶わなかった。戦争中も、この戦争はきっと負けるよと言っていた父だったが、平和な世を垣間見ただけで父は逝ってしまったのだ。
中野の家には今、甥一家が住んでいる。ただし、アパート付きのしゃれた住宅に変わり、あの古い昔の家は私の記憶の中にだけ面影を留めている。甥を訪問するということも、ほとんどなくなった。
父が亡くなってから、母と戦後の暮らしを必死に支えてきた。結核を発病した妹と、まだ小学生だった弟をかかえ、母と励ましあいながら生きた日々に今、悔いはない。父や母に愛された記憶だけがその後、私の生きる力であった。困ったときには、いつも父に助けてもらった。その時はもうこの世にいない父だったが、いつも父が仏檀で唱えていた「南無阿弥陀仏」を私も唱える。すると父が助けてくれるような気持がして心が落ち着いた。
私は本当に父っ子である。あり余る父の愛情で、何とか生きてきた。いつか父の許へ行った時にはまた思い切り甘えて、あの懐かしい笑顔に今度は私の頬を摺り寄せて、「お待たせ」と言いたいと思っている。
二〇〇三年三月三十日 執筆

父と戦争 
私は一九二六年(大正一五年)、東京の赤坂一ツ木通りで生まれた。今は亡き父母から聞いたことである。ここは東京の有数な繁華街だが、私はその土地についての幼時の記憶はまったくない。というのは私がまだ赤ん坊の時、父母は一家で東京郊外の中野に引越していたからだ。当時の我が家は中野駅から徒歩で十分くらいの所だったらしいが、まだ住宅も少なく駅のホームから我が家が遥かに見渡せたという。
子供の頃の想い出で今もはっきりと残っているものといえば、近くを流れていた小川の緩やかな眺めと、友達と日の暮れるまで遊んだ原っぱの柔らかい草の手触りなどだ。兄にザリカニを取ってもらったり、赤や白の蓮華草を摘んで首飾りをつくったりした日々。本当に平和で幸せな子供時代だった。だがその後、戦争の暗い影が少しずつ忍びよってきて、やがて日本中を覆い尽すようになった。我が家も例外ではなかった。 
戦争末期、東京は連日の米軍の空爆でほとんど壊滅状態。今でもあの頃の激動の日々が思いだされる。住宅の強制疎開も行われ、親しかった友達の家も軍の命令で跡形もなく壊された。個人の財産権などというものは、まったくの無視だったようだ。すべて戦争へと協力させられた。その分、道路を拡張して焼夷弾による延焼を防ぐ狙いだったのだろう。別れの時、友が泣いていたのが昨日のことのように思い出される。あの後、どこへ越していったのだろう。戦後一度も会うことなく、消息の一片すらもない。
 昭和十九年には学童疎開も行われ、子供たちはみな地方の安全な町や村に、先生や学友と集団疎開して行った。我が家でも小学五年生の弟がいたが、父母は末っ子のこの子を手放す気持ちになれず那須の山奥に急遽一家で疎開することになった。
そこに有力な伝手があったわけではない。一本の細い糸のようにわずかな伝手を頼っての疎開である。那須といってもあの風光明媚な那須地方ではなく南那須の鄙びた一寒村だった。疎開当日の上野駅での雑踏の光景を私は今でも覚えている。すべて軍事物資最優先の時代、個人の荷物を輸送する手段などなく、人々はみな背負える限りの荷物を背負い、両手は言うまでもなく、小さな子供たちも背中になにか背おわされていた。中には大きな箪笥まで背負い込み、ホームの上を引きずるようにして歩いている男の人もいた。一刻もはやく戦禍から逃れるため、なんとか汽車に乗り込もうと、みな必死だった。こうしているうちにも、いつ米軍の空襲があるかもしれない緊張した状況だった。
やっとの思いで車中の人となった私たち家族は、本当にほっとして一時に体中の力が抜け出る思いだった。すし詰めの車内は身動き一つできず、途中弟が「僕、おしっこがしたい」と言い出したが、どうにもならなかった。「もうちょっとだから我慢してね」 私は母と妹と言い聞かせ続けていたが、泣きだしそうな顔でこらえている弟が不憫で、そばで見ているのも辛かった。
 汽車には三時間ほど乗っただろうか。ようやく東北本線の一小駅に着いた。さらに山の中を歩くこと一時間近く。那須山中の鄙びた農村に疲れ切った足で辿り着いたとき、既に日は暮れかかっていた。
 低い山裾に十軒ばかりの農家が散在し、谷あいの谷津田には青い稲穂が風に揺れていた。戦火に追われて逃げまどっていた東京での暮らしでは想像も出来ない平和な農村の光景だった。だが私たちを迎えた現実はきびしかった。
 ここは当てにできるような有力な伝手があって来たわけではなかった。父母がちょっとした知人の話に飛びつき藁にもすがる思いで汽車に乗ったのである。だが、当てにしていた知人はなぜかそこにはおらず、家族は頼みの手づるを失って途方にくれた。見知らぬ土地での不安感はとても大きかった。
 低い山あいは日没も早く、向かいの山には既に薄暗い夜の帳が下り始めていた。ほかに行く当てもなく、やむを得ず私たちはその山の中腹、垂れ込めた夕闇の中にひっそりと佇んでいた観音堂にしばしの安らぎの時を求めた。幸い周囲に外縁が巡らせてあり、そこにみなで腰をおろした時、一日の疲れがどっと吹き出る思いだった。
 あの時、父母はどんなに心配したことだろうと今にして思う。ことに父は家族をまもる責任感でここまできたのだから。
不安な一夜が明けたあと、父母は山を降り、懸命になって村の人と話し合い、なんとか雨露を凌ぐところをと努力したのだった。
 二、三日観音堂に野宿したが、村ではその間、大騒ぎになっていたらしい。あとからきいたところによると「東京からの疎開もんが観音堂にいついたらしいぞ」と口々に言い合っていたとのこと。中にはわざわざ見物に来る子供たちもいた。私はまるで浮浪者にでもなったような惨めな気持ちだった。
 だが村の人々は、一家で野宿させていただいた観音様のように、ありがたい慈悲の心で私たち家族に接してくれた。一軒の農家の物置小屋が私たちに与えられた。床は竹敷きの上に茣蓙と莚が敷いてあり周囲の壁はむき出しの土塀で、所々に開いた穴には茣蓙がかけてあった。
 寒い那須の冬は到底越せそうに無いつくりだったが、幸い冬はまだ先だった。本当にありがたかった。父母はどんなに安堵の胸を撫でおろしたことだろう。ともかく家族で雨露をしのぐ所が見つかったのだから。私も観音様のお加護を思わないわけにいかなかった。家主の人は三十代半ばの農村婦人で、夫は戦争に召集され、いまだ消息不明とのことだった。幼い女の子を抱えていた。
 いつ戦争が終わるかも皆目分からず、戦地に送られていた兄の様子も一切分からず、しかも敗戦の気配は日一日と濃くなっていった。
「とにかくここで戦争が終わるまでみんなで力を合わせて頑張ろうな」という父の言葉にみな黙って頷いた。東京に残してきた我が家もいつ灰燼に帰するかもわからなかった。此処で頑張る以外に道はなかった。
 あの時、父がその後、わずか一年ほどで急ぎこの世を去るなどとだれも想像も出来なかった。日頃、血圧が高めであったようだが、医者もいず、薬もない戦時中の、ましてや山の中での暮らしで、どのようにして対処できただろう。戦争は疑いもなく父の死期を早めた。
父は頼りにしていた息子の戦地からの帰還も待たず、それどころか役所からの一片の紙切れ「サイパン島にて戦死」の公報に完全に打ちのめされた。父はこの公報を常に肌身離さず持ち歩き、誰彼かまわず、バス停で偶然となりに並び合わせた赤の他人にさえそれを見せては「私の息子がサイパン島で戦死しましてね」と話かけては涙ぐんだ。最愛の息子の死を誰彼となく話かけずにはいられない父であった。バス停で父と一緒に並びながら、痩せたその後姿を悲しい思いで眺めたことは、あれから六十年も経った今でもはっきりと思い出す。
父は戦争によって、心と身体に再起不能な打撃を受け、敗戦の年の十月、五十六歳の生涯を閉じた。軍部による無謀な戦争遂行を憂いて、「この戦争はきっと負けるよ」と口に出しては母にたしなめられていた。戦時中、日本には特高という恐ろしい存在があったからである。戦争批判はタブーだった。
二〇一〇年五月二三日 執筆

再会        
 最近、私はある一つの再会を果たした。と言っても人との再会ではなく、五十年以上も前に私の手元を離れた一冊の古い書籍との再会である。
 一カ月ほど前、我が家の電話のベルが鳴った。たぶん年配の方と思われる一人の女性からだった。その人、Kさんは五十年もの間、私の消息を探し続けてきて、つい最近偶然の機会に昔の女学校の同窓会名簿に私の旧姓を見つけ、驚いて急ぎ電話を掛けてきたとのことだった。
 Kさんの声を聞きながら、私の脳裏に遥か昔のある農村での風景がうっすらと甦ってきた。細い記憶の糸を懸命に手繰りよせている中に、次第に鮮明になってきた過去の一時期。それはあの終戦前、二、三カ月の激動と混乱の時だった。
 米軍の空襲は激しさを極めていた。三月十日の東京大空襲の後、首都は壊滅状態に陥り、当時私が通っていた専門学校は、東京での授業を断念して、地方のある農村に学校疎開した。
 そこは一面焼け野原の東京とは違い、見たところはまだ平和な農村だった。授業の合間、草原に坐ってぼおっと空の雲などを眺めていた時など、戦争はどこか遠い所での出来事と、ふと感じた程だった。焼夷弾の降りしきるなか、炎に追われて逃げ惑った東京との落差は大きかった。実際はここでも軍隊に取られる人も多く、戦争はひとごとではなかったのであるが。
 農家の蚕室を改造した板敷きの部屋に寝起きして、私たちは熱心に勉強した。時には少ない本を貸し借りしたり、お互いの家族のことや、また未来のことを語りあったりもした。米軍の本土上陸も噂され、日本の状況はほとんど絶望的であった。果たして自分たちに約束される明るい前途があるのかどうかも不明であったが、しかしそんな時だからこそ、私たちは未来について語らずにはいられなかった。
 そして、ついに敗戦。家族の不幸、財産の焼失など、我が家の受けた戦争被害は大きく、私はやむなく学校を去った。友達とも別れ、以後今日まで会うことはなかった。今回の私への電話の主は、そのときの同室の友であった。その友、Kさんは当時私から一冊の本を借り、今でも大事に保管しているとのことであった。
 この本、倉田百三著『愛と認識との出発』が今私の手元にある。宅配便で送られてきた本は、紙はセピア色に変色し表紙は綴じ糸が千切れていたが、紛れもなくあの本であった。私は懐かしさと、ありがたさで胸が一杯になった。
 五十年という長い歳月がいっぺんに私の手元に手繰り寄せられたという思いである。昔の思い出が次々と甦ってきた。一時はもう思い出したくないとさえ感じていたあの敗戦後の苦しかった時期が、いまはなぜか懐かしく思われる。
 人間は一人で生きているのではないとつくづく思う。長い年月、私との繋がりの細い糸をしっかりと握り続けて来られたKさんに心からお礼を言いたい。五十年の時空を経て、私がこの本との再会を果たせたのは、紛れもなくKさんの善意と誠実さの賜物である。日本のこの乱れた社会に、このような人が今なお存在しているということが、私には本当に嬉しく思われる。
 いつか今度は実際にKさんとの再会を果たしたい。そしてあの苦しかった時期を乗り越えて、現在の平安があることを共に喜びたい。
二〇〇〇年三月五日 執筆

熱中症    
まだ六、七歳の頃の思い出である。昔の記憶がどれもこれも日一日と薄らいでいる今日この頃だが、あの日目にした可哀想な一匹の馬の姿は今でも忘れられない。
自宅前の町道を真っ直ぐ行くと、三、四分で電車通りに行き当たる。右へ曲がると三十メートルほど先に、通りに沿って天神様のお社があった。付近はお店が立ち並んでいて、けっこう賑っていた。お社の境内はさして広くはないのだが、大きな樹木が何本もこんもりと茂り、夏でもひんやりとして子供達の格好の遊び場になっていた。
ある暑い夏の昼下がりのことである。友達と社殿の前の狛犬にまたがって遊んでいたお転婆娘の私は、ふと表の通りのただならぬ叫び声に気付いた。狛犬から飛び降りるや否や、鳥居をくぐり抜け、通りに出た
大勢人だかりがしていた。
「水だ、水だ」と男の人の叫び声。バケツに水を汲んで今にも転びそうに走る女の人。見ると電車通りの端に一匹の馬が倒れていた。
大きなお腹を激しく波打たせ、口から泡を噴いて、ハァ、ハァと喘いでいる。見るからに苦しそうな姿。こんなに苦しむ動物を見るのは初めてだった。
子供のこととて、この馬がどうしてこのようになっているのかは解らなかった。でもなにか大変な事態だとは理解できた。あまりに可哀想な姿に私は泣き出してしまった。
「大丈夫、大丈夫」。泣くんじゃない」よその小父さんが私の頭を撫でてくれた。
 馬の身体に何杯もの水が掛けられた。だが馬は最期まで起き上がれなかった。
 戦前の当時、表通りにはよく荷馬車が通っていた。重い荷物を荷台に載せ、馬方にお尻を叩かれながら馬は辛抱強く足を運んでいた。
 その日、今年の夏を思わせるような、厳しい真夏の太陽が中天に輝いていた。あの馬は重い荷物と照りつける日差しに体力の限界に達してしまったのだろう。今思えば重症の熱中症に倒れたに違いない。馬は口がきけない。苦しみを訴えるすべもなく、路上に倒れたと思うと本当に哀れである。
 あとで母に尋ねた。近所の人の話では、あれから獣医師も来たが、手当ての甲斐もなくそのまま路上で息を引き取ったという。
 もう少し馬方の人が気をつけてあげたらよかったと思う。早めに水を飲ませるとか、時々木陰で休ませるとか。
 馬方自身も耐えられない暑さに、一刻も早く荷物を運びたいと焦っていたのだろう。馬方だけを責めることは出来ない。でもじりじりと太陽が照りつける電車通りの道端で、苦しみながら死んだあの馬の姿。今でも私の記憶の中に残る悲しい状景のひとつである。
二〇〇五年八月一九日 執筆

学校疎開
 戦争末期、私の通っていた東京女子医専は東京から山梨へ学校疎開をしていた。米軍による空爆の烈しさに東京では落ち着いて勉強も出来なかったからだ。
 一方、私の父母弟妹たちは東京を離れ、南那須の一寒村へ疎開していた。その頃、学童疎開というものがあって、子供たちは親元を離れて地方の安全な村や町へ先生と一緒に移り住んでいた。だが、私の父母は末っ子で小学生の弟を一人手放すのを不憫だと思ったのだろう。一家で東京を離れて疎開した。

 私の山梨での生活は様々なことがあり今でも忘れがたい。養蚕農家の蚕室を借りて皆熱心に勉強した。戦争中のことゆえ食料も充分とは言えなかった。私はことに胃腸の具合が悪くなって中々恢復せず、良い薬もなく本当に困ったことを覚えている。
 戦況は日一日と悪化した。学友たちは、迎えに来た父上兄上たちと次々に宿舎を去って行ったが、私には誰も迎えに来なかった。
米軍の本土攻撃も間近と噂されていた。いつ米軍の本土上陸もあるかも知れない。もしそうなれば、山梨と那須とは東京という大都市によって分断され、二度と父母弟妹に会えなくなる。生きているうちに父母たちに会いたかった。私は一人で親の元へ行こうと決心した。
 ある朝、私は一人で宿舎を出た。先生にも友達にも、誰にも告げず一人で行動した。朝靄の中、ひたすら駅への道を歩いた。今行かなければ、もう家族には会えない。そんな切羽詰った心境だった。戦後、友人に聞いた所によると、あの時、宿舎では大騒ぎとなり、私がどこかで自殺したのではないかと噂していたとのことだった。結局、私がそれ以後学舎に戻ることは叶わなかった。
 
私は生きて一目父母に会いたいと必死で歩いていたのだ。目指す思いはただ一つ。空襲などで殺されず、生きて家族に会いたい一念だった。
 何とか汽車に乗ったが、途中米軍の烈しい攻撃に遭い、列車が止まってしまった。どこかの小さな駅のベンチで野宿した記憶がある。まだ二十歳前の若い娘だったが、それにしても今思うと無謀な行動だったと思う。
 汽車を乗り継いでようやく南那須の一駅に着いた。駅からさらに一時間近く歩き、父母の所に辿り着いた。
 
父母弟妹に生きて会えた。

二〇一三年八月一三日 執筆


第二章 産炭地の記憶
子育ての頃   
夜、寝苦しくて、なかなか眠れなかった。枕もとの時計を見ると、深夜の二時過ぎ。眠れぬままに、ベッド脇に置いてあった小型ラジオを取り上げ、小さな音で聞き出した。
 演歌が何曲か続けて聞こえてきた。私はふだん演歌はあまり聞かない。けれど夜更けにひとりじっと耳を傾けていると、なぜかじんと心に沁みて来た。 
 聞いているうちに、そのテーマには「雨」が多いということにふと気付いた。雨に気持ちを託して、しっとりとした情感を漂わせている。日本は雨の多い国。雨は涙につながる。どこかウェットな日本人の感性には、雨の演歌はぴったりと合うのかもしれない。
「アカシアの雨が止む時」のメロディーが耳に入ってきた。ハスキーな歌声が、女の悲しみと切なさをよく表現していて、胸を打つ。 
雨の歌を聞いているうちに、遠い過去のある光景が甦ってきた。
 昔、夫が東京本社から、九州筑豊の炭鉱事務所に転勤した。移り住んだ所は黒いボタ山が並び立つ産炭地。この特有の風土に馴染むのは大変だった。東京生まれの東京育ちで、まだ若かった私にとって、見知らぬ土地での三人の子育てには本当に苦労した。
 ある夏、連日耐えがたい猛暑が続いた。一滴の雨も降らない。空には真夏の太陽がまるで煮えたぎっているかのよう。人々も田圃の稲穂も、もうぐったりしていた。会社の給水設備は水源の川の水が枯れて断水となった。入浴はおろか炊事や子供たちの衣服の洗濯も儘ならず、もう我慢も限界だった。
 そんな状態が続いたある日の午後のこと。突然、空がぴかっと光ったと思ったら、ザザァーッと激しい雨が降ってきた。それこそ叩きつけるかのよう。空は昼とも思えぬ暗さへと一変した。
「あっ、雨、雨が降ってきた」
 私は思わず外に飛び出し、軒下に佇んで激しい雨足に見入った。辺りは一面の水浸し。道路の上を、雨水が川のように流れていた。   
どのぐらい続いただろうか。やがて雨はぴたりと止まり、見る見るうちに、辺りはまた元の明るさを取り戻した。気温がいっぺんに下がった。何という自然の力の不思議さだろうか。
 家に入って、窓を全部開け放った。清々しい涼風が室内をさぁーっと吹き抜け、窓辺の風鈴が長い眠りから、いま目覚めたかのように、チリン、チリンと鳴り出した。あの猛暑はいったいどこに行ったのだろう。狐につままれたような気持ちだった。
 炭鉱町に降ったあの激しい雨。乾き切った大地を潤し、人や他の生き物たちの命を蘇らせてくれたあの恵みの雨。今もふと思い出す。
 その頃、娘達はまだ小学生。筑豊生まれの一人息子はとても元気な子で、社宅の裏のボタ山に子犬と一緒に登ったり降りたり。危なくて眼が離せなかった。家族で英彦山(ひこさん)・雲仙・阿蘇・島原などへも行った。そんな子供達も今はそれぞれ家庭を持ち元気で過ごしている。
筑豊から博多へと移り住み、子育てに夢中だった十数年を過ごした九州。喜びも悲しみもこもごもだったあの懐かしい土地での思い出の数々。夜ラジオで聞く雨の演歌はそれらの光景を、しみじみと私に甦らせてくれた。
 耳を傾けているうちに、次第に心が静まり、寝苦しさも消えた。私はラジオのスイッチを切り、いつしか深い眠りに落ちていった。
二〇〇四年九月二八日 執筆

黒いシルエット
平成十四年一月、北海道釧路市の太平洋炭鉱が八十二年の歴史に幕を閉じて閉山した。中小はまだ残っていたが、大手の中では日本で唯一最後まで残った炭鉱だった。真っ黒な炭塵を顔にこびり付けた炭鉱マン達が、地下の採炭現場から次々に昇ってくる様子をテレビで目にしたとき、私の胸には思わず熱いものが込み上げてきた。その人たちにとって最後の昇鉱だったのだろう、きっと万感胸に迫る思いがあったに違いない。九州や北海道の産炭地で長い年月を過ごしてきた私にとっても、とてもそのまま見過ごしには出来ない光景だった。
 昭和三十年初め、夫が東京本社から九州筑豊の炭鉱事務所に転勤した。関門国道トンネル開通の少し前だった。連絡船に乗り、初めて海峡を越えてかの地に足を踏み入れた時、私はまだ若く両脇には幼い二人の娘を抱えていた。東京生まれで東京育ちだった私がこの炭鉱地帯で果たしてやっていけるのか、不安感が胸をよぎった。この特有の風土に馴染めるのだろうか。自信はまったくなかった。
 だが、それから十何年も、黒いボタ山の並び立つこの炭鉱町に住み続けることになった。二人の娘たちも、其の地で生まれた息子も筑豊弁を上手に使いこなす炭鉱っ子になっていった。けれど、ここは私にとってはまさに異郷の地だった。いつまで経っても風土にも人情にも言葉にもなれることができない。社宅のそばには鉄道の線路が長く伸びており、その上に鷹羽橋という大きな鉄橋が架かっていた。夕方、暮れなずむ空に浮かぶその黒い鉄骨を眺めるたびに、私は切ないほどの望郷の思いを募らせた。この線路の先には東京があるとの思いだった。
 北九州の響灘に注ぐ遠賀川というかなり大きい川がある。かつて石炭を運ぶ川舟が行き来した川である。その支流である彦山川の近くに、私達一家が移り住んだT市があった。当時それらの川筋には大小の炭鉱がひしめいていたが、私の夫はその中の大手の一つへ職員として赴任した。
 多くの炭鉱マン達が地底で働いていた。俗に川筋気質と言われる気性は激しいが一本気で純粋な男たちだった。町にはピラミッド型のボタ山が重なり合い、炭鉱のシンボルである高い煙突が威勢良く煙を吐きだしていた。ここはかの有名な炭坑節「月が出た、出た、月が出た」の発祥の地ともいわれていた。
 その頃はまだ炭鉱の景気も悪くはなかった。企業城下町であるその土地では、社宅も、医療も、福祉や娯楽も皆会社に依存していた。息子も会社の病院で生まれ、娘たちも病気や怪我で何回そこで世話になったか知れない。風呂用の石炭は皆会社から配給され、町には会社の体育館から映画館までそろっていた。安い費用で会社任せの暮らしができた。こんなところだから若い私もなんとかやっていけたのだろう。
 だがその反面、人間関係ではかなり気をつかった。社宅街では夫の会社での位置関係が、そのまま妻たちの立場にそこはかとなく影響した。それは無いようで有るという微妙なものだったが……。
 十数年に及ぶ九州筑豊での暮らしは、まるでモザイク模様のように入り混じって、今私の脳裏に浮かび上がる。様々なことがあった。炭鉱の事故も何回もあった。 水没事故、炭塵爆発など貴重な人命も多く失い、それらの事件が発生するたびに、暗い地底に命を失った人々、かけがえのない家族をなくした人々の悲しみを思った。炭鉱の入り口で泣き崩れる女たちの嘆きの声が今でも耳に残っている。私の産炭地生活は様々な事件や事故の話で、心を痛められながらの日々だった。
 家族の歴史の中でも忘れられないことが多い。喜怒哀楽さまざまな思いに揺られながらの日々だった。夫が入院したこと、子供たちの度々の病気や怪我、十五年も飼っていた犬の死、近所付き合いが苦手で家族以外の人とあまり会話がなかった日々、母や弟妹と遠く離れた異郷の地で、頼りになる人も無く泣きたい思いで頑張ってきた。
 長男が生まれたことは、かの地での最大の喜びだった。この子は私の宝物。私は愛情の限りを注いで育てた。娘たちも年の離れた弟をまるで母親のように慈しんでくれた。私が留守の時は二人でミルクを飲ませたり、オムツを替えたり、どんなに助かったことだろう。息子は姉たちが学校に行っている時は、いつも子犬と 一緒に社宅の裏のボタ山に登ったり降りたり。元気そのものだった。
 その後、会社の全盛時代はすっかり影を失った。石炭から石油への急激なエネルギー革命は、産炭地に嵐のように襲いかかり、どの炭鉱も見る影もなく寂れてしまった。いつだったか、テレビであの懐かしい筑豊の炭鉱地帯を映していたが、町再生の切り札としてボタ山を崩して造成した工業団地も、企業誘致が思うように進まないという。思い出深いあのボタ山、息子が子犬と遊んだあの石炭ボタを積み重ねた山が、今は誘致企業も少ない造成地となってむなしく雑草を茂らせているというのは、筑豊に様々な思いを残している人間としてとても悲しいことだ。今はどうなっているのだろうか。石炭産業華やかなりし頃の繁栄は無理としても、せめて穏やかで静かな豊かさがあってほしいと思う。
 その後、私たち家族は、博多での三年余の転勤生活を経て北海道の炭鉱町に赴任した。半年は雪に覆われる氷点下の町は、すべての妥協を許さない、まさに凛冽と言う言葉が相応しい土地だった。南の国九州とは風土がまるで異なっていた。だが家族全員風邪ひとつ引かないで三年余を過ごせたのはせめての幸せだった。
 テレビによると、私たちが過ごしていたころ、大勢の人々で賑わっていたあの筑豊の炭住街は、今わずかの残った人々がひっそりと暮らしているとか…。エネルギー変革の波に襲われて閉山が相次ぎ、多くの若い炭鉱マン達が去った後、どこにも行き場のない老人たちが、ひと気の少ない炭住街を静かに行き交う風景は見ていてもとても辛い。この人達は石炭産業の全盛時代に体を張って炭鉱を支えてきた人々なのだから…。
 石炭はかって黒ダイヤとよばれていた。あの筑豊の町には、その名も「黒ダイヤ」と名づけられた美味しい和菓子があった。駅頭の土産物店にはいつもそのお菓子が綺麗な箱に入れられて売られていたが、石炭の形に似せた握りこぶし大の黒々とした羊羹だった。あっさりとした甘みで、私も東京の親や親戚に盆暮れによく送った覚えがある。炭鉱が潰れてしまった今でも、あの羊羹は残っているだろうか。
 真っ赤な夕焼け空の中に、三角形の黒いシルエットがくっきりと浮かびあがっていたあのボタ山のある風景。今後また筑豊を訪れることは多分ないだろう。でもあの町のたたずまいは、これからもいつまでも私の懐かしい記憶の中に、残るに違いない。     
二〇〇四年一二月一五日 執筆

寒さの中を生きる
 一九六九年、夫の転勤で、九州から北海道に移り住み、極寒の産炭地K町で私たち一家の生活が始まった。
赴任の日は三月の終り頃だった。北海道空知郡のS駅で下車し、ここからK町まで約二十分、迎えの車の中から眺めた光景は忘れられない。冬の間降り積もった根雪が山肌も家々の屋根も道路も一面覆い尽くしていた。雪というより灰色の堆積物という感じだった。
私たちが住んだ社宅の脇には、くすんだ色の沼がありどこか不気味だった。夜は薄暗い一本の電灯が上からひっそりとその沼を照らしていた。
朝、起きると必ず台所の庇の下に吊るされてある寒暖計を見る。それはほとんど零下二十度を指していた。
庭はとても広く、さくらんぼ、くるみ、ライラックなどの樹木が自生していて、春先には庭のあちこちに野苺、蕗の薹、ぜんまい、鈴蘭、水仙などが顔を出し、時には小さなリスが樹間を走ることもあった。庭には池があり、冬の間、氷の下に隠れていた鯉が雪解けと共に割れ目から首を覗かせて、小学五年生の息子やその友達たちを喜ばせた。寒い冬の間、池の底でじっと生きていたのだろう。
北海道の冬の生活はたしかに厳しかった。一年の半分は雪に埋もれる。吹雪の時など一歩外に出れば吐く息も凍って苦しいくらい。廊下に干した洗濯物はこちこちに凍ってまるでするめ同然。窓の外には今まで見たこともないような巨大な氷柱がぶら下がっていた。だが家族全員冬には風邪一つ引かなかった。
楽しいこともあった。台所には赤々と大きな石炭ストーブが燃えており、隣の居間には暖かいスチームが通っていて、ここが家族団欒の場だった。息子は裏のミニスキー場で一日中友達とスキーを楽しんだ。長女は千葉の大学に入学しており、親元には不在だったが、次女は転校した北海道立の高校で演劇部に席を置きここで良い師と友を得た。まだ若かった私は、手編みの帽子と手袋、マフラー、厚手のジャンパー、ゴム長靴といういでたちで、冬場、どこへでも出かけた。また夏には会社の婦人会の人々と十勝地方などへ旅をしたり、盆踊りでは揃いの浴衣を着て皆と輪になって踊った。寒さも慣れればさほど苦痛ではなかった。
二年後、次女が大学進学のため上京する時、息子と二人で駅まで見送りに行った。山の斜面にへばり付くように建てられている雪にうずもれた炭鉱住宅は、それだけでこの風土に染み付いた寂しさを充分感じさせた。後に息子が私に「あの時一面灰色の山の端に妙に赤っぽい夕日が沈みかけていた」と言ったが、この言葉は、私の記憶の底にも長く残った。
その後、夫に転勤話が出た。長女と次女はすでに大学生として千葉市内に下宿していた。夫が東京に単身赴任した後、家には小学五年生の息子と私二人きり。冬の夜など外はしんしんとして物音一つしない。音はすべて深い雪の中に吸い込まれてまったくの静寂無音の世界となる。夜、息子が隣室で眠った後は、私は寝るまでテレビを付け放しにしていた。
夫が迎えに来て帰京の日の朝、会社の人たちに送られて駅を離れた時、万感の思いに胸が塞がれた。毎朝来る雪掻き馬車の車輪のきしむ音も、道端に転がった馬糞さえも懐かしかった。
二〇〇七年八月二五日 執筆

第三章 母の思い出
母と子の歌   
 明治生まれの母は、生前歌を歌うことが好きで、家事の傍らよく口ずさんでいた。私も時折一緒に歌ったが、長い年月を経てきた今は、その歌詞やメロディーはほとんど覚えていない。けれど、その中で今でもはっきりと覚えている歌が一つある。
どうしてこの歌だけ記憶に残っているのか不思議だが、多分、歌詞とメロディーの哀切さが、私の心に深く沁み入ったのではないかと思う。それとも母が何回も、何回も歌っていたのだろうか。
 それは明治の日露戦争の時、旅順攻撃で父を失った幼い男の子が、母親に問いかける歌だった。陸軍のカーキ色の軍服を着て、町の中を行進する兵隊たちの姿に、その子は同じ軍服姿で、軍隊に召集されて行ったきり帰ってこない父の面影を、思い重ねていたのかも知れない。
 父に背負われたり、抱かれて頬擦りされたりした時の温もりを、子供心に切なく思い出したのだろうか。
 その歌の歌詞は今では多少不確かだが、おおよそ次のようなものだった。
「母ちゃんご覧よ、向こうから、父ちゃんによく似た小父さんが、たくさん、たくさん歩いてる。若しや、坊やの父ちゃんが、帰って来たのじゃあるまいか。よってば、よってば、よう、母ちゃん」
「また、母ちゃんを泣かせるの。父ちゃんはね、ようお聞き。今度の旅順の戦いに、名誉の戦死を遂げられて、今じゃ、あのような仏壇に、位牌とおなりになったのよ」
「だって座敷のお位牌は、何にも物を言わないで、坊やを抱いてもくれないの。本当坊やの父ちゃんを、連れて帰ってちょうだいな……」
続きがまだあったようだが、残念ながらはっきり覚えていない。
この歌。とても悲しい歌だと思う。暗い仏間で抱き合って涙する若い母と幼児の姿が眼に浮かぶ。戦いで夫や父を失った母子の寂しさ、切なさが滲み出ていて、私は今でも口ずさむと、目頭が熱くなる。
誰が作った歌かは知らない。多分、名も知らぬ女たちの中から、自然に生まれ出て、歌い継がれて来たのではないだろうか。「反戦」などと言うむずかしいスローガンがうたわれているわけではない。けれど戦争で、愛する肉親を奪われた悲しみは伝わってくる。幼な児は戦争もなにも解らない。ただ父の姿を求めて泣く。子供から父を奪ったのは、この戦争という名の暴挙に違いない。
庶民の女たちは、ひたすら歌の中に悲しみの思いを込めて歌うほかなかったのだろうか。言論の自由も無かった時代なる故に……。
「あぁ、弟よ君を泣く 君死にたもう事なかれ 末に生まれし君なれば 親の情けはまさりしも 親は刃を握らせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや……」
与謝野晶子が、この旅順の戦いの時に発表した詩歌である。戦争に出向く息子を見送る父母たちの胸中には言い尽くせぬ思いがあった。生きて帰ってと、どれほど願ったか知れない。だがそれを言葉にすることはできなかった。まなこの中にキラリと光るものを、ひたすら押し隠して息子を送った。与謝野晶子のこの詩歌はそんな親たちの思いをはっきりと表現している。これが親の気持ちである。
第一回旅順総攻撃があったのは一九〇四年。おおよそ百年経った。だが、その百年間は決して平和だけの時代ではなかった。日露戦争のあと、日中戦争、太平洋戦争と続いた。野や山に夥しい男たちの血が流れ、多くの女たちの悲しみの声が地にあふれた。
旅順攻撃の際には、日本軍に四万人の死者が出たという。その数の多さに私は本当に驚いた。母親を泣かせたこの子も、こうした死者の残した子なのだろう。
今、窓外の林で秋の虫たちがしきりに鳴いている。可憐な声だ。ふと夏の蝉時雨を思い出した。太平洋戦争の終結を知ったのもやはり熱い八月の昼、蝉時雨の中だった。
二〇〇四年一一月五日 執筆

「紫」への思い                           
 玄関を出入りするたびに、ドアの脇に置いてあるプランターを眺める。二十日ほど前、桔梗の根茎を十五株植えた。いつ芽が出るか、毎日屈みこんでは眺めていたが、なかなか出て来ない。十日程経った頃、ようやくほんの三、四ミリの可憐な新芽が土の中から顔をのぞかせた。
小さくて、か弱げな姿。大きく育つだろうか。でも植物の生命力はたいしたもの、心配をよそに今では十五株がみな暖かい春の陽ざしをいっぱいに浴びて、すくすくと成長している。六、七月には美しい紫や白の花を咲かせてくれることだろう。
 私は色では「紫」が好きだ。静かで落ち着いた雰囲気、しかも気品がある。昔から貴人の服装に多く用いられたようだ。
先日、奈良県飛鳥村の高松塚古墳の様子をテレビで見た。中の壁画の傷みが激しく、その保存方法が問題になっている。石室の壁には四人の女性像が描かれているが、その一番奥の女性の服の色が長年分からなかったそうだ。最近科学の力で紫色と判明したという。
 本によれば、古代から紫色は紫草という植物の根から採るとのこと。現代の科学染料とは違う美しい自然そのものの色だ。草地に自生しているそうだが、今はかなり少なく採集には苦労するらしい。根が紫色でそれを乾燥し煮出して布地を染める。
先日やはりテレビで見たのだが、著名な染色家がこの色の再現に努力していた。かなりの年配の人で、その上病持ちとのこと。しかし病身に鞭打ち二人の息子さんの協力を得て、その採集から染め出しまでこの古代紫の再現に命を賭けている様子だった。時々身体を横にして休みながらの作業だった。なんとしてもあの色を出したいという芸術家の執念のようなものを感じて感動した。
ようやく抽出された紫色の液の中に、真っ白な布を浸す。何回も煮出し美しい古代色に染め上げられた布が、釜の中から姿を現す。染め上がった布は淡く気品のある紫色。この布であの古墳の壁画に描かれた中国風の古代女性の上着が作られた。老染色家はさぞ満足したことだろう。
天智、天武両天皇に愛された宮廷歌人、額田女王は“紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)”とうたわれた才色兼備の女性だった。才媛、額田女王の身に纏う衣装こそ紫が相応しいと私には思える。その美しい姿が、今でも目に浮かぶようだ。
我が家の庭には、今、「都忘れ」がひっそりと咲いている。何年か前に植えたものだが、毎年顔を出す。四、五十センチほどに伸びた茎の先に咲く可憐な花。これも美しい紫色である。
「都忘れ」とはどこか寂しげな名前だが、この花の命名にはなにか由来があるのだろうか。この命名の謂れを語る説話を最近本で知った。
「承久の乱に敗れて佐渡に遠流になった順徳帝が、草ぼうぼうの庭に一茎の野菊が紫色に咲いているのを見つけ、『紫といえば京都を代表する美しい色だったが、私はすべてを諦めている。花よ、いつまでも私のそばに咲いておくれ。都のことを忘れられるかも知れない。お前の名を今日から都忘れと呼ぶことにしよう』と傷心の慰めにした」という話である。
戦に敗れ佐渡の配所に流された帝が、一茎の都忘れに心を癒される。哀れの思いをそそられずにはいない話である。都忘れの名前は、やはりここから来たのだろうか。順徳帝は配流された佐渡で二十年余りを過ごされ、ついに其の地で崩御されたという。かの都忘れは、毎年春ともなれば可憐な紫色の花を咲かせて、帝の寂寥を少しでも癒すことが出来ただろうか。
桔梗も都忘れも古くからの日本の花。赤や黄、ピンクなど洋花の明るさ、華やかさは無いが、静かで楚楚としたたたずまい、その控えめな美しさに私は惹かれる。
私は紫の色が大層好きだが、自分の衣服にこの色のものはほとんどない。紫という気品のある色の衣服を着こなす自信はまったくないからだ。唯一の例外は数年前に編んだ鉤針編みの毛糸のベストである。これは今でも大切に着用している。
「紫」に思いを馳せているうちにふとある光景が私の脳裏に浮かんで来た。昔、まだ若かった頃、母が紫色の銘仙の着物を作ってくれた。            
母は私の結婚を大層心配してくれた。終戦直後父が脳出血で急死し、間もなく妹が結核で入院した時、弟はまだ小学校五年生だった。学業を中途で止め、米軍で英文タイピストとして働いていた私の将来に対して、母は責任を感じていたのかも知れない。とにかく幸せな結婚をさせたいと懸命だった。そのお見合いの時着たのが、あの、母が作ってくれた紫色の矢絣模様の着物である。見合い写真が残っている。カラーではないが矢絣模様ははっきりと映っている。両手を膝の上に重ね、着慣れない格好の和服姿でかしこまっている若い日の私。懐かしい思い出の一齣だ。
近頃、身内、友人などの訃報を聞くことが多くなった。この歳になれば致し方のないことだ。時に話題に上るのが、死出の衣装のことである。私は昔ながらの白装束は着たくない。今、手元に一枚の黒のロングスカートがある。この上に紫色のブラウスを着よう。なんと美しい死出の衣装ではないか。紫好きの私にぴったりだ。
夫との最初の出会いとなった記念すべきあのお見合いの日、母が着せてくれた紫の矢絣の着物に替えて、今度は私の人生最期となる日、このブラウスとスカート姿で母の許に行きたい。
再会の時、母はなんと言うだろうか。
「はるえさん。あなた、紫がけっこう似合うじゃない」
笑顔で言ってくれるだろうか。私の幸せな結婚を願って努力してくれた母。父亡き後、苦労をし続けて亡くなった母。そんな母に私は生前一度も面と向かって「ありがとう」と言った覚えがない。今度、母と再会した時、母にどんな言葉をかけたらよいだろうか。もう時間は残り少ない。
二〇〇六年八月一九日 執筆

残照                  
 私の部屋は二階六畳間で、西北に向いている。日当たりはあまり良くない。前は幅六メートルの道路を隔てて一面の杉林、大きな立木が生い茂っていて、昼でも暗い感じだ。夜、雨戸を閉める時、前を眺めると、それこそ一点のあかりも見えず真の暗闇である。この林の奥行はどの位か、立木の切れた先はどうなっているのか。足を踏み入れる気にもなれないので確かめたことはない。
ここに越してきた当時、私は夜この暗い闇を眺めるのが不気味で嫌だった。でも今は違う。もし前がネオンの街だったらどうだろう。その明るさよりも何も見えない漆黒の闇のほうが私には好ましい。気分が落ち着く。秋、暗い樹間にひそやかに鳴く虫の声などを聞けば、その気持ちはいっそう深まる。
 今年は梅雨明けが遅く、八月に入ってようやく夏らしくなった。これから夏本番になるのだろう。蝉時雨も近頃頻りに耳に響く。
半月ほど前のことである。その日夕方、何気なく前の林を見た。いつもは暗い木立の奥がその時、息を呑むような茜色に輝いていた。これは幻影ではないか。一瞬思った。何本もの杉木立がまるで黒い影絵のように、光の屏風の前に浮き上がっている。実際に確かめたわけではないが、林の向こうは多分畑にでもなっていて、夕日がその平地を貫き一直線にこの林を照らしていたのだろう。
 残照が、しばらく空一面に静かに照り映えていたが、やがて林は再び夜の闇に包まれ、何本もの黒い立木の影もその中に姿を消した。
 その夜、私は三十数年前に亡くなった母のことを思わずにはいられなかった。あの美しい残照に母の最期の姿が、重なり合って見えたからである。その時、母は七十二歳。認知症の症状が進み、実の娘である私のことも見分けが付かなくなっていた。
「あんた、だれ」。 不審そうに呟いた母。次第に意識が混濁し、母の命はもう幾ばくもないと思われた。だが、そんなある日、母は突然「あんた、はるえさん」と、はっきりと言った。母は私の手をとって「はるえさん、はるえさんなのね」と泣きじゃくった。暑い夏の日の昼下がり、蝉の声だけが響いていた。 .
 母の意識が戻ったのだ。私をわが娘と再び理解した母。胸が一杯になった。それは母の失われゆく生命に灯った最期のあかりだったに違いない。だが、日没後の残照が次第に消えて行ったように、母の命のあかりもその後、少しずつ衰え、一週間後、終に息絶えた。 
 その後半月余り、時折前の林を見るが、あのような鮮やかな真紅の夕日はまだ見ていない。やはり長く続いた梅雨の曇り空が、太陽の照射を妨げていたのかもしれない。あれはやはり幻影ではなく、束の間の梅雨の晴れ間に現れたいっときの現象だったのだろう。
 あの時、暮れ行く空に美しく、静かに照り映えていた残照。私は眺めながら、この自然の織りなす大きな光景に、深く心を動かされた。とても厳かで神秘的でもあったあの残照。それは今でも私の脳裏にはっきりと刻みこまれていて消え去ることがない。
二〇〇六年九月二五日 執筆


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